統合失調症の息子との日常

「統合失調症の子」の親になったひとの記録 あと夫の抑うつとか介護とか

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絶対なんてないよ絶対?~『はじめての哲学的思考』苫野 一徳

苫野 一徳『はじめての哲学的思考』を読んで、気づきがあった部分を抜粋します。

 

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自分の経験を過度に「一般化」してまるでそれが絶対に正しいことであるかのように主張しないこと。<中略> 自分の経験はあくまで自分の経験にすぎないということをちゃんと自覚しておく必要がある。P58

 

コレ、無意識についやってしまいがちですね。気をつけたいと思いました。

 

二項対立的な「問い方のマジック」に引っかからないこと。<中略>この世に、あちらとこちら、どちらかが絶対に正しいなんてことはほどんとない。<中略>にもかかわらず「問い方のマジック」は、まるでどちらかが<絶対に>正しい答えであるかのように人をあざむく。そして、僕たちの思考を間違った方向へと向かわせてしまう。P63

 

確かに世間は対立や分断を煽る二項対立の言葉があふれていますね。でも、お互いが「自分の主張が絶対に正しい」と言い合うだけではどこにもたどり着くことができない。だからこそ一旦立ち止まって「問い方のマジック」に騙されていないか吟味する必要がある。そもそも「問いの立て方」が間違っていたらなら、正しい答えにはたどり着けないのだから。

 

例えば Q. 私たち人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか? という問い

そんなもの、僕たちにはどうがんばたって分からない。<中略>このような問いの立て方をしている限り、僕たちの思考はどこにも行きつかない。でも、もしこの問いを次のように変えたなら、それはがぜん意味のある、そして「答え」を見出せる問いになる。P68

 Q. 人間は、いったいどんな時に生きる意味や理由を感じることができるのだろう?

僕の考えでは、哲学の本領の半分ぐらいは、このような「ニセ問題」を意味のある問いへと立て直すことにある。P70

哲学は、ある命題が「真か偽か」を明らかにするものじゃない。お互いの「確信」や「信憑」を問い合うことで「共通了解」を見出し合おうとする営みなのだ。ちなみに、ここでいう「共通了解」にも絶対的な了解なんてものはもちろんない。どこまで行っても、それは相手との間に了解が得られたという、僕自身の「確信」や「信憑」だ。でも、だからこそ僕たちは、この「共通了解」についての「確信」や「信憑」を求めて、お互いにコミュニケーションを続けていくほかにないp92

 

著者によれば、哲学って「意味ある問い」を立てて、お互いの共通了解を得るための営みなんですって。そんな風に考えたこと無かったです。そうだとするならば、確かに哲学も「役に立ちそう」な気がしますね。

 

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こちらは同じ著者の本ですが、高3から8年間躁ウツだったり、学生時代には「教祖様」をやっていたり、色々を心の問題を抱えていた著者が、自分に哲学的思考をインストールすることで、心の問題を解消することができたという半生を赤裸々に語っている一冊です。読み物として面白く読めましたよ。